2014年08月09日
古田清人 6
田村装備開発です。
申し訳ありません。更新が滞りましたmm
前回の続きです(^^ゞ
古田清人 6
千早さんは誠実で聡明であり、心の温かい人でした。
私たちは1938年に蒼龍で初めて会ったのですが、
その後3年間赤城に乗船するまで一度も会っていませんでした。
彼は真珠湾攻撃でも私のパートナーでした。
赤城の同士であった阿部善次は千早大尉の思い出を次のように語っています。
彼は海軍兵学校の第62期で、私より二歳先輩でしたが一番中の良い人でした。
私たちは二人とも約一年赤城の分隊長でした。
千早大尉は中肉中背で丸顔、目がとても澄んでいました。
彼は温厚な紳士ですが口数の少ない人でした。
彼は62期の中で、私が最も尊敬する人の一人でした。
彼は1944年6月11日にマリアナで戦死しました。彼は死後に2階級上の大佐の称号を与えられました。”
千早大尉と共に飛ぶ飛行士として千早大尉の飛行機を操縦する責任は非常に大きく、
任務を完了するために必要なあらゆることを準備しておく必要がありました。
訓練期間の最後に、
真珠湾攻撃の参加候補である私たち全員は艦爆隊の総司令官である江草隆繁少佐のリードのもとに飛行しました。
急降下爆撃の攻撃シュミレーションは仮定の標的として設定された佐伯湾で行われました。
この訓練の完了により隊は”戦時編成”に移行しました。
私は嚮導機を操縦し、航空母艦に最初に着艦します。赤城が私の新しい住処となり、私たちは日本本土を離れました。
次回に続く
田村装備開発(株)
商品HP www.tamurasoubi.co.jp
訓練HP www.tamurasoubi-training.com
申し訳ありません。更新が滞りましたmm
前回の続きです(^^ゞ
古田清人 6
千早さんは誠実で聡明であり、心の温かい人でした。
私たちは1938年に蒼龍で初めて会ったのですが、
その後3年間赤城に乗船するまで一度も会っていませんでした。
彼は真珠湾攻撃でも私のパートナーでした。
赤城の同士であった阿部善次は千早大尉の思い出を次のように語っています。
彼は海軍兵学校の第62期で、私より二歳先輩でしたが一番中の良い人でした。
私たちは二人とも約一年赤城の分隊長でした。
千早大尉は中肉中背で丸顔、目がとても澄んでいました。
彼は温厚な紳士ですが口数の少ない人でした。
彼は62期の中で、私が最も尊敬する人の一人でした。
彼は1944年6月11日にマリアナで戦死しました。彼は死後に2階級上の大佐の称号を与えられました。”
千早大尉と共に飛ぶ飛行士として千早大尉の飛行機を操縦する責任は非常に大きく、
任務を完了するために必要なあらゆることを準備しておく必要がありました。
訓練期間の最後に、
真珠湾攻撃の参加候補である私たち全員は艦爆隊の総司令官である江草隆繁少佐のリードのもとに飛行しました。
急降下爆撃の攻撃シュミレーションは仮定の標的として設定された佐伯湾で行われました。
この訓練の完了により隊は”戦時編成”に移行しました。
私は嚮導機を操縦し、航空母艦に最初に着艦します。赤城が私の新しい住処となり、私たちは日本本土を離れました。
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