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Posted by ミリタリーブログ  at 

2014年10月06日

残り僅か & 古田清人14

田村装備開発です。

台風の影響、田村装備開発は殆ど影響がありませんでした。

本社で飼っている、ウサギ『ハク』と『ミミ』も元気にしております(^^)

今回は、コンパクトレッグリグのご連絡です。


次回より、スターライトスコープについて、少し書こうと思います(^^)





1 残り僅か!



VOLK TACTICAL GEAR 様とのコラボ製品、

コンパクトレッグリグ、残り僅かです!

TTCで人気のBKは、間もなく品切れです。

お買い求めは こちら から

宜しくお願い致しますmm




2 古田清人14

赤城は別の攻撃のため飛行機の準備をしていて、

いくつかは燃料を積んで武装されていたため、

1つの爆弾が命中したことが大きな悲劇を招く際立った結果となりました。」

南雲忠一中将は指揮を駆逐艦野分(その後軽巡洋艦長良に)に移し、

空母から離れました。しかしその当時、船の船長は最後まで船に残ると信じられていました。

赤城の整備士たちは逃げようとして二つのグループに分けられました。

1つのグループは船首に、もう1つは船尾に行きました。

彼らは熱から逃げる必要がありました。青木泰二郎艦長は船員を集めるため船尾に行きました。

彼は、飛行士を助けて日本に生きて帰る必要があると言いました。

青木艦長は飛行士は一人前になるのに20年(生まれてから成人するまで)かかるため、

非常に貴重な存在であり、彼らが生き延びればすぐにまた飛べると言ったのです。

船尾に1つボートが下げられました。

その後、私を含み約40人がこのボートで近くの駆逐艦に移動しました。この時、

赤城が沈んでいるとは思いませんでした。

それでもなお、空母は赤く光り、あちこちが燃えていました。

空母加賀も同じ状態でした。赤城はもともと巡洋戦艦として造られたため、非常に頑丈でした。

私たちは空母を残して去ることはできませんでした。

米軍がそれを察知するからです。そ野代わり、翌日早く、駆逐艦の魚雷を使って赤城を沈没させることに決めました。

赤城を沈める前に、船に残ると信じられている艦長を含め誰も船に残っていないことを確認しました。

幸いに、グループの人々が彼を船から連れ出していて、彼は助かりました。

私たちの船は、すぐに沈められました。

「6月5日5時20分、山本艦長に愛された赤城は駆逐艦荒潮、萩風、舞風、野分から発射された魚雷によって沈められました。

1,070人以上の乗組員のうち263人が亡くなりましたが、

古田さんが述べたように、青木艦長も幸運な生存者の一人でした。」

今にして思えば、私たちはミッドウェイ環礁を攻撃すべきではなかったと思います。

そのかわり、敵の航空母艦を探して沈めるべきでした。

なぜなら私たちは彼らがその辺にいるという直感があったからです。

空母同士の戦いをすべきで、もし敵の空母を沈めたなら、

ミッドウェイ環礁も容易に手に入れることができたと思います。

それにもかかわらず私たちは航空基地を攻撃しましたが、飛行機は一機もなく、

それは海軍上層部のミスだったのです。私たちは命令されたことを実行しましたが、

それは意味のない任務でした。私は日本の司令官がどう考えたか知りませんが、


私にとって最善の策は敵の母艦と交戦し、ミッドウェイ環礁を手に入れ、そしてハワイに進むことでした。

ミッドウェイ海戦の前には多くの戦いに勝利していました。

しかしながら、私たちは4つの空母をミッドウェイで失いました。

もし日本の海軍がもっと聡明なら、状況は違っていたと思います。

私たちは真珠湾の戦いではたくさんの戦艦を失いましたが空母は失いませんでした。

しかしながら、私たちはその事実を無視してミッドウェイ環礁を攻撃することに集中しました。

戦争の後半で私たちはすべての空母を失ったので、米軍の空母に対して上手く戦うことができませんでした。

新しい飛行士は若くて技術も低く、そしてついに、私たちは戦争に負けました。

次回に続く



田村装備開発(株)
埼玉県東松山市大谷4453

www.tamurasoubi.co.jp
www.tamurasoubi-training.com
0493-36-1255

  


Posted by ミスター&ミセス 田村  at 16:14Comments(0)オリジナル製品装備品その他